本質的な癒しについて ―(2)本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係―

前回は、強い自己否定やそこから発症したパニック障害で苦しんだ私が、感情や感覚、思いと向き合っていく中で、全ては心の中にある感情や感覚、思いの投影であること、そしてこの感情―感覚―思いは実体がなく、本当の自分(真の自己)とは全く関係がないのだという理解をしていったことによって、症状が劇的に良くなっていったことをご紹介しました。

 

第2回目の今回は、このような「本当の自分」に気づいていくというプロセスが、自分の悩みや症状の癒しをしていくことと、どうつながっているのかについてお話してみたいと思います。

 

本当の自分とは

それでは、「本当の自分」とはどんなものなのか、私たちが見る「夢」や、「映画館のスクリーンとその上に映し出されている映画」を例にしながら、見ていきましょう。

 

例えば、夢を見ている間は、その夢の中で走ったり、もがいたり、楽しく過ごしたりして、その物語を生きますね。恐竜に食べられそうになっている夢、敵に追われて崖まで追いつめられている夢を見た場合、これが現実だとしたら大変なことです。ですが、目が覚めると、それがどんなに怖い夢であったとしても、夢をみていたとわかってホッとします。それは、「現実には何も変化はなく夢をみていたのだ」とわかっているからです。

 

これを、映画館のスクリーンとその上に映し出される映画に例えてみると、

私たちが見ている夢とはスクリーンに映し出される映画であり、

夢をみていたのだとわかっている私たちはスクリーンとなります。映し出される映画は都度変わるのですが、スクリーンは映画の内容によって破けたり、燃えたりなどせず、一定で何も変わりません。

 

これを、前回ご紹介したヨガ哲学の言葉に当てはめると、

ヨガ哲学の言葉
「私たちが普段『自分』と思っているのは一体何なのか? 肉体、呼吸、五感、心、経験が自分なのか?」という問いを投げかけ、
 
この問いに対して、
 
「これらはすべて変わりゆく物であって、本当の自分ではなく、本当の自分は、これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しない存在が自分自身。変化する物のすべてを、本当の私だけが、変化することなく観ている」(「やさしく学ぶYOGA哲学 ヨガスートラ」向井田みお著(P61))と「本当の自分」について説いている

 

「変わりゆくもの、本当の自分ではないもの」が”夢”や”スクリーンに映し出される映画”ということになり、

「これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しないもの」「変化するもの全てを見ている変化しないもの」が”夢を見ていたのだとわかっていること”や”スクリーンそのもの”ということになり、それが「本当の自分」ということになります。

 

本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係

「自分(普段の私たち)」や「自分が作り出す物語」は、感情や感覚、思いの連動と集積によって成り立っています。これらは、変化したり、変容したり、消えたりするという性質のものである以上、夢や映画と同じなのです。それが、どんな自分や物語であったとしてもです。つまりそれが、うまくいっていない自分や苦しい物語だろうと、逆に、うまくいっている自分や楽しい物語だろうとも、です

 

エクハルト・トールが、「自分が何者でないかを見きわめるなかから、自ずと自分は何者かという現実が立ち現れる」(『ニューアース』エクハルト・トール著(p37))と言っているように、普段の私たちが実体性がないとわかればわかるほど、本当の自分(真の自己)は、スクリーンである変わらないものである、という理解が現れてきます。

 

これが理解できてきたときに、私の中で、「私という物語を生きる」ことに、いい意味で力を抜くことができたのです。「諸行無常」という言葉がありますが、あらゆるものが移り変わっていくという、そのありように抗わずに、任せてよいのだなといった信頼や、そこからの安心感に包まれました。

また裏を返せば、自分がいかに本来は実体がない夢や映画という物語を信じ、その物語をよい物語にしようとエネルギーを費やしてきたのか、ということにも気づかされ、それ自体が、私を私たらしめているものなのだなという自分という存在への理解やその健気さに労りの気持ちも生まれました。

 

こういった、物語(夢や映画)は本当の自分ではなく、本当には何も起きておらず、本当の自分はスクリーン(変化することなくただ見て、それらを経験するもの)の方だということに気づくことで訪れた癒しは、それまでにない深い癒しとなりました。それを「本質的な癒し」と呼ぶならば、それまで求めていた癒しは、言ってみれば「一般的な癒し」と言えるかもしれません。

一般的な癒しは(これはこれでとても大切なものでもあるのですが)、物語(夢や映画)をいわゆるネガティブなものからポジティブなものへと変えることで得られる癒しと言えるかもしれません。

そこでは、物語(夢や映画)はポジティブに変わったとしても、それはやはり「夢」であり「スクリーンに映った映画」であって、いつまたネガティブなストーリーが上映されるかもしれません。変わらないもの、変化しないものがあるのだということに理解や実感がないと、変化することや変わるということは脅威となります。そのため、普段の私たちは、たとえ楽しい物語(夢)を生きていたとしても、いつまた物語(夢や映画)が変わってしまうかもわからない、といった欠如感や不安、怖れというものを感じてしまうのです。時にはよい物語を維持しようと執着し、それが苦しみにもなってしまうこともあるでしょう。つまり、決して、絶対的な満足感、安心感、信頼、充足感を得ることはできないのです。

 

このように、私にとって、本当の自分(真の自己)に気づいていくというプロセスは、私がずっと持ち続けてきた「本当に安心できるということはどういうことなのだろう」と問いに対しての答えをくれるものでもありましたし、物語(夢や映画)を変えるだけの癒しとは違う、より深い安堵や絶対的な安心感、癒しをもたらしてくれたものになったということです。

 

最後に

ここまで、18歳から約20年余りにわたる私の苦しみの癒しのプロセスをご紹介しながら、より深い癒しを知ったことですごく楽になれたこと、そしてその深い癒しとは何かについてお話をしてきました。

 

私は、普段はもちろん思考や解釈、イメージなどと同化して私(物語、夢、映画)を生きていますが、これからも自身や自身の物語を構成している感情、感覚、思いの集積などの解放、解体を通して、本質や絶対的な安心の場に体験的に触れていくということを続けていきたいと思っています。

 

皆さんも頭の理解のレベルでもよいので、時々、思考や解釈、イメージ、物語を信じず、脇に置いて、本当の自分とはスクリーンの方であるということを思い出すことを意識してみるのはどうでしょうか?

 

なぜなら、この「本当の自分」は、無条件の愛、受容、慈しみ、信頼、英知、静寂、愛ある力、生命そのものなので、それを意識することで、いつもうっすらとある欠如感や不安、怖れを埋めようとする自動反応的な動きから自身を休ませることができますし、このような動きに巻き込まれていなければいないほど、本質や絶対的な安心の場とは切り離されていないのだなという感覚が持ちやすくなるからです。

そしてまた、自分という存在の実体性がないことがわかることで、逆に、私という存在、物語(夢)を力を抜いてもっともっと楽しむこともできるのではないかと思います。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 


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