今回は前回からの続きの境界線についてです。
前回は、私たちが自分の中で起きていることに責任をもてるかという精神的な自立が、健全な境界線を引けることに関わっていることや、それを難しくさせる理由として、自我の性質と人生の中での傷つきについて解説してきました。
今回と次回は、いくつかの個別のケースを出しながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見ていきたいと思います。
また、次回の最後には、境界線を越えない、越えられるのを許さないために私たちはどうしたらいいのかについても触れていきたいと思います。
今回は、DVなど自分を傷つける人と関係を切ることができないケースと、親の過干渉で自分で決めることができなくなった子どものケースを題材に、健全な境界線を引きにくくさせる理由を心の仕組みから解説していきたいと思います。
自分を傷つける(DVなど、言葉や身体的な暴力、虐待)人と関係を切れない
親子関係や夫婦関係において、傷つけられているのにその関係を断ち切れず、その関係の中にとどまり続け苦しむというケースについてです。
この時、傷つける側、そして傷つけられる側の心の中ではどのようなことが起きているのでしょうか?
傷つけたいという衝動の奥にあるのは「自分には力がない」という思い
最初に、傷つける側を見ていきましょう。
相手を傷つける態度として現れる形の例として、
・相手に自分の思いどおりの行動をさせる
・自分と違う考え方、意見などを持つことを許さない
・相手が離れようとすると、離れていかないように、相手の怖れを刺激して(脅しなどはその例)相手を支配下に置き続けようとする
などがあります。
また、傷つける側は、「お前が悪い」「お前のせいだ」「お前がわかっていない」と口汚くののしったり、攻撃をし、相手の領域を越えてきます。
私たちが、相手を攻撃する時というのは、私たちの中に何らかの感情、感覚、思いが抑圧されている時です。そして、それらを刺激されるような事態が起きると、自分を守るために(抑圧している感情、感覚、思いに向き合わないために)、攻撃という形を取るのです。
例えば、自己肯定感の低い夫が、ある朝、Yシャツにアイロンがかかっていないことを見て烈火のごとく怒ったとします。これは、もともと自分の中にあって触れられたくない「自分の願いは受け止めてもらえない」といった傷があるからなのですが、それに向き合おうとせずに、反対にそれを刺激した犯人を外に探して(投影)、「自分をないがしろにしているからだろ!お前が悪い!」と問題のすり替え(防衛・攻撃)をしているのです。
トラウマや傷つきによって自己価値が低まっていると、「自分には力がない」というものがベースになりますから、自分の中にある様々な怖れや不安、不全感、欠如感といったものに向き合うなど、怖すぎてできないものです。ですから常にすり替えをして、誰かのせいにする必要があったり、相手や周りを服従させたりすることによって、自分の不全感、欠乏感を埋めるということをしなければいけなくなります。これは、自分の中で起きていることへの責任を持つことを放棄しているのです。そのことに心の深いところではうっすらと気づいているのですが、無力な自分ゆえに、それをどうしたらいいのかわからないので、誰かや何かのせいにしないとやっていけないのです。
このように、私たちの心はいつも抑圧→投影→防衛・攻撃という仕組みで動きます。
それゆえに、傷つける側は、いつも攻撃の対象を必要とするのです。
傷つけられる側の中にもある「自分には力がない」という思い
では、一方の傷つけられる側の心理はどうなっているのでしょうか?
傷つけられる側の人たちがよく思っていることは、「誰も助けてなんかくれない」ということです。自分のことを「無力で小さな自分」と見てしまうので、外に助けを求めるという発想自体がない(という世界観を持ちやすい)のです。ゆえに、たちまち境界線を越えられることを許してしまいます。
さらにひどいときには、越えられていても、むしろ「私が悪いからそうされて当然」、「私は尊重される資格がないのだから」「私は悪い人間だから」と自己卑下をベースにして相手の行為を正当化したり、「相手の役に立てている」「私がいないとあの人は生きていけないから」と自身の不全感を埋めるために、無意識にこの関係を利用したりもします。
このように、傷つけられる側にも、傷つける側と同じように、怖れ、無力感、不全感、欠如感があるのです。
自分に価値があると思っている人は、こちらに非がないのに暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたりしたならば、それは相手の問題だ、相手がおかしいと、きちんと切り分けができて、自分の領域の中に留まることができます。
この傷つける・傷つけられる関係は、一見、傷つける側が力を持っているような関係に見えますが、いずれも、「自分には力がない」という思いをベースに惹かれ合っている関係です。お互いに精神的に自立しているという感覚が薄いため、共依存となり、どちらかがこの関係から抜け出すというのは、なかなか難しいものになってしまいます。ですから、はたから見て離れた方がいいと思える関係であっても、本人たちはその関係にとどまり続けてしまうのです。
親の過干渉で自分で決められなくなった子ども
最近は、過保護、過干渉の親のことを「ヘリコプターペアレント」と呼んだりします。子どもがつらい思いをしたり、不安を感じたりしないようにと、先回りをして、子どもが解決すべき問題、子どもが考えて判断したり、決断したりする事柄を全て引き受けようとするのです。こうした親子関係では、親が境界線を越え、子どもが越えられる立場となります。
「あなたのためを思って」「あなたのためだから」「私の言うことを聞いておけばいいのよ」という言葉は、過保護や過干渉な境界線を越えている親からよく聞かれる言葉ではないかと思います。
親子ですから、愛情で結ばれている関係ではありますが、実はこれは、親自身の中にある「他人の目にいい親と映っているだろうか」「子どもの能力を伸ばせない親と思われていないか」「親失格と思われないか」といった子育てへの不安や自信のなさを、子どもを使って解消しているのです。子どもが考えたり、判断したり、決定したりという精神的な成長の機会や可能性を奪うとしたならば、一見愛情をベースにした言葉がけや行動に見えたとしても、それは、境界線を越えた対応と言えるでしょう。
一方で、過保護や過干渉な対応を受けて育った、つまり境界線を越えられて育った子どもはどんな風になるのでしょうか? 一つケースを見ていきましょう。
Aさんは、30代前半の女性ですが、小さい頃から習い事などでは何を習うのか、どこで学ぶのか、どの学校に行くのか、何を着るのか、どういう友達と付き合うのかなどをすべて母親が決めてきたと言います。先んじて色々なことをやってもらえた分、楽ではあったのですが、一方では自分がどうしたいかをわからなくさせられている感じがずっとあったとのことです。
そんな彼女は大人になった今、相思相愛の相手と出逢えたのですが、いつもどこか相手のことが信じられなく、自ら関係を壊したくなってしまう、という悩みを抱いています。
Aさんのように過保護や過干渉な環境で育った子供は、いつもどこか「理解されていない」「わかってもらえていない」「人は自分の思い通りに人を動かす」といった不満を抱えたり、「自分が信頼されていないのではないか」といった自己不信を持つことになります。さらに自分自身で何かを成し遂げたという経験が少ないので、自信も育ちません。
そして、これらの自信の欠如や不満感の蓄積は子どもの心の中で無力感を深め、自分で自分の人生を選んで決めている、「自分が自分を生きている」という感覚を弱めてしまいます。それにより、自分の領域はここからここまで、という風に境界線を引くことを難しくさせるのです。特に愛情が絡む関係であると、境界を越える親の行為を愛情だと勘違いするために、なおさらわかりにくくなります。
その結果、
・自分が何が好きなのか、本当は何がしたいのかがわからなくなる
・何かを決めたり、判断したりするときに怖くなってしまう
・相手を試して、本当に大丈夫だと思えない限りは判断や行動がしにくくなる
・誰かの判断をいつも仰ぎたくなる
ということが起きることになるでしょう。
Aさんが今、パートナーと関係を深めていくにあたって、抵抗感がでてきてしまうのも、理解ができますね。
今回は境界線を越える、越えられるのを許すことで起こる共依存の関係をパートナーシップと親子関係を例に解説をしました。
次回は、相手に言ったり、したりしたことが良かったのか? と気になったり、自分のせいだと思ってしまう時を例に、その時の心の状態について見ていきたいと思います。
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